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​過食で悩む子の声に耳を傾け

 「どう過食から抜け出しましたか」「下剤をやめたいんです」……。東京都の会社員、野邉まほろさん(24)のもとには、ひっきりなしにSNSでメッセージが届く。高校・大学と6年間、摂食障害に苦しんだ経験をブログで発信し、同じ悩みを抱える子の声に耳を傾ける。つらい経験を聴いて、「良くなりたい」と強く願う子の気持ちが軽くなればと考えている。​

誰にも言えない過食や嘔吐(おうと) SNSで届く声

 「就活どう?」「大学で何の勉強してるの?」「一緒に服買いに行こうよ」

 多いときには月数回、インスタグラムツイッター経由でメッセージを送ってきた女の子と実際に会う。話すのは、ふだん女の子の友達と話していることばかり。自分から摂食障害の話は持ちかけない。

 会ってたわいもない話をしているうちに、相手の子が過食や嘔吐の経験を打ち明けてくる。

 家族に隠れて食べ物を口に詰め込んだり、友人と食事に行った帰りに吐いたり。誰にも言えず、SNSの「病(や)みアカ」(摂食障害の当事者と明かしたアカウント)でつらい気持ちをつづっている子も多い。

 「SNSで前向きなことをつぶやくようにしたよ」「毎日必ず朝ご飯を作るようにしてみた」

 自分の経験を伝え、別れる時には「絶対治そうね」と声をかける。医療的な助言はしない。

 「治るきっかけは人それぞれだし、治し方は教えられないけど、同じ経験をしている人に話すだけで楽になることもあると思う」

6年間の摂食障害の経験 ブログにつづる

 「もう食べたくない。誰かわたしを止めて」と題したブログをハフポストに掲載したのは昨年5月だ。6年間の摂食障害の体験をつづった。

 島根県・隠岐の島の生まれで、自然に囲まれてのびのび育った。島を出て進学校の高校に進んだ時、寮生活のストレスで高熱を出した。授業についていけなくなり、テストの点も思わしくない。焦りが募り、コンビニで大量にお菓子を買って、やけ食いして気を紛らわせるようになった。

 成長期だったので、一気に体重が増えた。それが気になり、インターネットで「ダイエット」を検索。ヒットした「下剤」をのむようになった。食べては下剤をのんで、トイレにこもる。のむ量は90錠にもなった。

過食症とは……

摂食障害は食べる量を制限する拒食症と、食べ続けてしまう過食症に大きく分かれる。摂食障害の国際学会が作った「医学的ケアのためのガイド」によると、過食症は、比較的短い間に大量の食べ物を食べ、食べることを制御できない感覚が伴う。嘔吐や下剤・利尿剤の乱用といった「排出・代償行動」がある過食症と、吐いたり下剤を使ったりしない「むちゃ食い」がある。

 精神科を受診したが、「うつ病と摂食障害」と言われ、うつの薬を処方されただけだった。薬をのんで治ると思えず、自助グループの雰囲気にはなじめなかった。摂食障害の講演会で「理論」を聞いても、「しんどいのは今。とにかく助けてほしい」と感じていた。

ネットでつながる「みんなと一緒に治したい」

 高校はほとんど不登校だったが、卒業間近に猛勉強し、大学生になった。彼氏との予定のたびに下剤をのむ自分に嫌気がさし、「もうやめよう」と、下剤はすっぱりとやめた。

 それでも、ストレスがたまると週1回は過食してしまう。「治らないんじゃないか」と不安になり、ネットを検索してツイッターにたどり着いた。そこで「同じように苦しんでいる子、でも治そうとしている子がいるんだ」と気づいた。

過食症に伴い……

摂食障害の治療にあたる医師によると、過食症では、情緒不安定になったりうつになったりする人がおり、買い物やアルコール依存に陥ってしまうこともある。嘔吐などがない「むちゃ食い」では体重が増え、引きこもりになってしまう人もいる。

 みんなと一緒に治したいと考えるようになり、ブログで摂食障害について打ち明けた。ツイッターでも「後ろ向きな言葉はつぶやかない」と決めた。

 3年前には、ブログやツイッターで知り合った摂食障害の女の子と会うイベントを開いた。体重を減らすことにこだわるのではなく、ネイルや服でおしゃれを楽しもうと思い始めた。

 毎日ワンプレートの朝ごはんを作る、お風呂にゆっくりつかるといった日々の生活を整えることも心がけた。

 気づくと、大学3年生のころには、ほとんど過食をしていなかった。

「髪染めてる 病気じゃない」偏見の目も

 昨春、社会人になった。忙しい毎日を送っているが、「下剤を買いにいこうと思っていたけど、まほろさんの記事を見つけて思いとどまった」。そんなメッセージが届くとうれしくなる。

 ただ、全国各地からのつらさを訴える声を読んでいると、助けの手がなかなか届いていないと感じる。中には、意を決して病院を受診したのに「髪を染めている子は病気じゃないよ」と言われた子もいる。

 「実際に悩んでいる子のほとんどは一見、見た目は普通なんです。なのに『病人らしく』振る舞わないと、病気だと思ってもらえない」

 自分の体験を知ってもらい、「治すきっかけにしてくれたら」と考えている。

薬物依存に陥り、孤独死した母を見つめて/おおたわ史絵

「家には使用済みの注射器が散乱していたーー」。テレビ番組のコメンテーターとしても活躍する、医師のおおたわ史絵さん。自身のクリニックを閉じ、この1年は矯正施設で勤務しているという。なぜ、その道を選んだのだろうか。(構成=丸山あかね 撮影=本社写真部)

◆断腸の思いで病院をクローズして

2018年6月から非常勤医師として矯正医療(刑務所などの矯正施設の医務部において受刑者の医療措置や健康管理を行うこと)に従事しています。受刑者の多くは過去に不健全な生活をしていたという経緯から、持病を抱えているケースも少なくありません。受刑者の高齢化もまた、社会問題の一つです。

犯罪者と接するのは怖くないのか? と訊かれることも多いのですが、答えはノーです。むしろどんな人が来るかわからない一般病院の密室で患者さんと向き合うことのほうがリスキーかもしれません。矯正医療においては同室に複数の医師が並んで診察を行いますし、屈強な刑務官が何人も立ち会います。受刑者と2人きりになることはありません。今までに怖い思いをしたことは一度もないですよ。

とはいえ、矯正医療に携わろうと考える医師は少ないのが現実。国民の税金で治療を行うため、行える医療に限りがあり、歯がゆいのかもしれません。一般病院に比べて給与が高くないこともあるでしょう。それ以前に何より、この仕事は医師の間でもあまり知られていないのです。そんななか、なぜ、あなたは矯正施設で働くことに決めたのですか? と問われたら、運命に導かれて、と答えます。不思議な流れを感じるのです。
医師だった父が他界したのは03年。以来私は、父が遺した医療法人を継ぐことが自分の使命だと考えて走り続けてきました。ところが3年ほど前、頼りにしていた医師が体調を崩してしまい、そこへさまざまなトラブルが重なり、すっかり疲弊した私は断腸の思いで病院をクローズしようと考えました。

そのための手続きを1年がかりで終えたのが17年の半ば。事務的な忙しさに追われ、その後の自分の身の振り方について具体的に考える余裕はなかったのですが、自分に運や縁や力があれば、必ずまた医師として働けると思っていました。

そこで力試しのつもりで、総合内科専門医の資格を取ろうと半年間、ひたすら勉強し、合格。これからどうしようかと考え始めたところ、友人から「法務省が矯正医療の医師を探している」という情報が飛び込んできたのです。

絶妙なタイミングでした。矯正医療と聞いて「やる!」と答えたきっかけは、犯罪者の医学面の特質を知ったことでした。受刑者の罪状はさまざまですが、多くの場合、犯罪と依存症はセットになっています。

たとえばアルコール依存の人はお酒欲しさに窃盗をする。女性の性犯罪にしても、薬物依存と密接な関係にあります。薬物を買うお金を得るために体を売る女性がどれほど多いことか。

かたや最近では、女子マラソン元日本代表選手が摂食障害からクレプトマニア(窃盗症)に陥ってしまったと告白して話題を集めていましたね。実は摂食障害も依存症の一種なのです。

つまり、受刑者と向き合うことは依存症の人と向き合うことに等しい。このことが決め手となり、私は矯正医療に従事することを決めたのです。

ここで少し、薬物依存だった亡き母の話をさせてください。

◆死ぬほどやめたいのに死ぬほどやりたい

母は異常なほどの教育ママでした。娘を医者にすることだけが目標のように見えました。私が小学校に入学したあたりから、失敗すると物差しで叩く、椅子から叩き落とす。帰りが遅くなれば手にお灸を据えると脅され、泣きながら許しを乞うたものです。飲み物に下剤を入れられたこともありました。体罰はどんどんエスカレートしていきましたが、母の期待に応えようと私も必死でした。

体調不良から、体の痛みを訴えるようになった母に父が麻薬性の鎮痛剤を注射したことから、母は薬物依存へと陥っていきます。もともと看護師だった母は自宅の階下にある病院から鎮痛剤を勝手に持ち出しては、自分で腕や脚に注射を打つことも容易にできたため、事態はたちまち深刻化したのです。

私が中学生になる頃には母の体は注射痕だらけで、精神科に入退院を繰り返すようになっていました。退院すると母は決まって私に弱気な表情を見せ、「今度こそママは薬をやめるからね」と告げるのですが、翌日には別人のように平然とまた注射を打っている。

何度こうして裏切られたことでしょう。使用済みの注射器や空になったアンプルがそこかしこに散乱している。そんな恐ろしい光景がいつしかわが家の日常になっていました。

当時は、なぜ母は平気で私を裏切るのだろうと打ちひしがれていたのですが、医学を学んだ今ならわかります。死ぬほどやめたいのに、死ぬほどやりたいのが依存症なのだと。

 

 

依存を断つことができないのは、意志が弱いためではなく脳の問題。薬物依存に限らず、アルコール依存もギャンブル依存も買い物依存もセックス依存も、あらゆる依存症は恍惚感の刻まれた脳に支配され続ける病です。

先日、依存症の専門医と話をする機会がありました。「依存症の人は自分が依存症だという自覚はあるけれど、脳の指令に逆らえず、結果として罪悪感に蓋をしてしまう」と話していたのが印象的です。だからこそ、母も家族を裏切り続けることができたのでしょう。

また、その方から、「依存症の人は恍惚感を得るためなら手段を選ばない」と言われ腑に落ちました。母の心は薬を手に入れることに完全に支配されていたのです。

考えてみれば私を医者にすることに異常なほどに固執したのも、薬のためなのかもしれません。年老いていく父がいつか死んでしまったら、薬の供給源はなくなる。それを補うためには娘が跡を継ぐのが一番の方法でしょう。

最愛の娘ですら、依存の欲求を満たす道具としか見られなくなった母の脳は、あまりにも醜く、そして悲しい状態でした。

◆こんな母なら死んでほしい、と本気で思った

私が研修医時代に結婚したのは、優しい夫と巡り合うことができたからですが、一日も早く実家を出て母から逃れたいという気持ちも強かった。

ところが結婚すれば安泰というわけにはいきませんでした。ある日、父から「薬を渡すのを渋ったら、ママが暴力を振るうようになった」とSOSがあり、私は再び地獄へと引きずり戻されてしまうのです。

このとき相談に乗ってくれた薬物依存の専門医から、「依存症は手を貸す人間がいなければ成立しない」とアドバイスを受けてハッとしました。母に対して「薬をやめなさい」と口では言いながら、結局は注射薬を与えている。歪んだ愛の共依存関係にあることを諭されたのです。そこでその共依存を断つため、父と二人、家族のための収容施設へ2週間ほど逃げました。

その後も専門医の指導のもと、父と私の闘いは来る日も来る日も続きました。薬物を断つために可能な限りの方法を取りましたが、そう簡単に解決するものでもなく、依存症の根の深さを身に染みて感じることとなりました。

さらに父が肝不全で他界すると、母はよりいっそう私に依存するようになり、昼夜を問わず電話をしてきて「体が痛い」と訴えるようになります。とりあわないと何度でも救急車を呼んでしまいます。それでいて、親戚や知人には、私が父の遺産を盗んだと作り話を言いふらすなどメチャクチャで……。

寂しさゆえだったのでしょうけど、もう限界、こんな母なら死んでほしい、と本気で思いました。

母と対峙していると、叩いて黙らせたいという衝動に駆られることもありました。ひとたび手をあげたら抑えていた感情が爆発し、もしかしたら本当に殺してしまうかもしれないと思うと怖かった。そこで思い切って母との距離をとりました。ほぼ絶縁状態です。心の苦しい日々でした。

そんなある日、母は自宅のベッドの上で心臓発作を起こし、孤独死してしまった。5年前のことです。第一発見者は私でした。死んでほしいと思っていたはずなのに、咄嗟に心臓マッサージをした自分の行動には驚きました。そして、「ママ、ごめんね」というやりきれない思いだけが残りました。

私にとって矯正医療を通して依存症の人と向き合うことは、医師でありながら救うことができなかった母への贖罪なのかもしれません。

◆依存脳を変えるのは不可能に近い

日本において特に多い犯罪は窃盗と薬物ですが、どちらも再犯率の高い犯罪です。それは言うまでもなく、依存との関係性が深いから。

覚せい剤依存の人は何年刑務所に服役しても、出所した途端に覚せい剤がほしいのです。長期間の刑期をまっとうしたからといって、根本的な脳は変わっていません。依存体質はなくなりはしないのです。周囲の理解や正しい協力も重要ですが、愛を注ぐことで改善するとは必ずしも言えないという事実も忘れてはなりません。

結論からいえば、出所後、依存症である本人が「今日も我慢することができた」と一日一日を超えていくためには、専門医や施設の力を借り、依存から抜け出す環境を整えることが大切なのです。

でも一筋縄ではいきません。症状が深刻である人に限って専門家のもとへ行かないものです。本人は再び依存状態に陥っていることを隠しますし、家族が強制的に病院や施設に連れて行くのも難しいといった問題もあります。

家族が依存症だと悩んでおられる方に私がお勧めするのは、「(依存症患者の)家族の会」などに参加し、同じ悩みを抱える方と痛みを共有することです。

家族は依存症本人に治ってほしいと考えてしまいがちですが、ひとたび形成された依存脳を変えるのは、まず不可能に近いもの。現実的に家族の苦しみを軽くするには、自分の心の持ちようを変えるほうが効果的なのです。

家族会に参加すれば、現状は変わらなくても、つらいのは自分だけではないとわかり、少しは楽になる。適切な対応の仕方などの情報を得ることで活路を見出すこともできるでしょう。そうやって自分自身を変えていくと心が軽くなるものです。

◆受刑者たちに医師としてできること

周知のように矯正施設は犯罪者が罪を償う場所であり、二度と同じ過ちを犯すまいと改心するよう誘うことが目的です。けれど残念ながら、根底に依存症が潜んでいる限り、処罰や拘束だけで再犯を防ぐことは難しいと言えるでしょう。

真に改善へと促すためには、法と医療が力を合わせて取り組む必要があると、私はかねてテレビなどでも発言してきました。刑務所の中でこそ、罪を犯す脳や依存する脳の再構築に全力を尽くすべきです。

健康な体を取り戻すことは健全な心を取り戻す第一歩となります。医務部は矯正施設の中で唯一といえる談笑できる空間。診察・治療をしながら、人間関係の大切さを伝えることのできる絶好の場だと思っています。私が心がけているのは、受刑者であれ、ほかの一般患者さんと同じように接し、相手の言葉を傾聴すること。

「再犯なんて減らせないよ」

人はそう言います。たしかに感情のない人や、罪悪感に蓋をしたままの人を目の当たりにして暗澹たる気持ちになることもないわけではありません。

でもたとえ100人に伝えてダメでも、101人めには何かが変わるかもしれないじゃないですか。依存症の現実を目の当たりにしてきた自分だからこそできることがここにはあると感じます。

私ね、自分が医者になった意味が、いま初めてわかったような気がしているんですよ。

​幼い頃から売春と覚醒剤で捕まった少女と出会った刑事の話

幼い頃から売春と覚醒剤と そしてハナはデカと出会った

ハナを支え続ける蜂谷。「捕まえるだけが刑事じゃない」との信念がある。

 虐待、売春、そして薬物依存――。幼い頃から壮絶な体験を重ねた1人の女性がこの夏、夢に向かって一歩を踏み出した。転機になったのは、ある刑事との出会いだった。

 2016年1月、警視庁池袋署の取調室。「あんた偉いの? 令状持ってこいよ」。ハナ(仮名、25)は薬物事件担当の刑事、蜂谷嘉治(はちやよしはる)(62)に採尿を求められ、そう言い放った。

 ラブホテルで一緒にいた男が意識を失い、119番通報した。搬送先の病院で男の尿から覚醒剤の陽性反応が出て、覚醒剤取締法違反の疑いでともに逮捕された。

 無表情のまま黙秘するハナに、蜂谷は切り出した。

 「落語って知ってる?」

 「知らない」

 好きな演目「牛ほめ」をやってみせた。とんちんかんな男ら登場人物になりきり、落ちに差し掛かったとき。プッ。ハナは思わず噴き出した。

 その後も、蜂谷は取調室にふらっと現れては落語を披露した。薬物に詳しく、何でも見透かされているような気がした。ハナはぽつりぽつり、自分のことを話すようになった。

14歳で覚醒剤を使い始めたというハナ。取材に幼い頃からの壮絶な体験を明かした=2019年7月、東京都内、稲垣千駿撮影

 都内で母親と祖母、曽祖母と暮らしていた。祖母は万引きの常習者で、母親は売春をしていた。「生まれてきてほしくなかった」とよく暴力を振るわれた。曽祖母だけが覆いかぶさるようにして守ってくれた。

 小学校は3年間で不登校に。間もなくして、仲良くなった地元の先輩に勧められて初めて大麻を吸った。景色が鮮やかになり、「楽しい気分」になった。次第に大麻がないといらだつようになり、やめられなくなった。

 曽祖母と祖母が亡くなり、11、12歳の頃に母親に売春を強いられた。14歳のとき、ホテルで相手の暴力団関係者から小さな氷の粒のようなものを勧められた。「きれいになれて、セックスが気持ちよくなる」。注射器で使うと、呼吸が一瞬乱れた後、全身に鳥肌が広がり、手足が冷たくなった。覚醒剤だった。

 「あともう1回だけ」。そう思って使っているうち、2週間に1回が毎日になり、多いときは1日2回。いつの間にか抜け出せなくなっていた。

お父さんだったら

 取調室で蜂谷は、態度が悪いと叱り、ときどき「字がきれいだな」などと褒めた。今までにない経験にハナは自然と心を開いたが、薬物の入手先や仲間のことは話さなかった。つながりを失いたくなくて、聞かれてもうそをついた。

 蜂谷は最後までじっくり聞き、本当かどうか裏付けに走った。「刑事はお前の言うことを全部信じて捜査するんだ」と言う。「この人には勝てない」と感じた。

ハナと2人きりで語らう蜂谷。自立を支えようといろいろな形で寄り添っている=2019年7月、東京都内、稲垣千駿撮影

 逮捕されて気づいたこともあった。腕からわき出て彫刻刀で切りつけると消えるミミズ、ゴミ箱から突然現れるおじさん、話しかけてくる水……。すべて幻聴や幻覚だった。

 16年3月、東京地裁で懲役1年6カ月執行猶予3年の判決を言い渡された。法廷に来た蜂谷を「お父さんだったらいいのにな」と思った。

 判決後、アパートで再び母親と暮らした。かわいがっている飼い猫と離れるのが嫌だった。母親は交際相手の家に入り浸りで、たまに帰ってきては交際相手と一緒に手を上げた。

蜂谷の発案で始まった交換日記。昨年2月14日には、薬物の誘惑を吐露するハナに対し、覚醒剤の検査結果とともに「ちゃんと我慢できました。エラいです!」と部下の刑事がつづっていた(画像を一部加工しています)

 自分で探した福祉施設で月給7万5千円の低賃金で働いた。「お前みたいのが雇ってもらえるだけありがたいと思え」と言われた。仕事を探していたとき、面接で腕の彫刻刀の傷痕を理由に落とされたこともあった。

 また薬物仲間が集まる場所に出入りするようになった。病院で処方を受けた向精神薬を大量に使うと、気分がよかった。

 蜂谷はそれでもハナに寄り添った。「捕まえるだけが刑事じゃない。自立を支えたい」。池袋署の一室で一緒に弁当を食べながら、世間話から薬物のことまでいろいろな話をした。部下の刑事を交えて交換日記を始めた。薬物を使いたい、人手不足で24時間勤務になっちゃった……。ハナは率直な気持ちや日々の出来事をつづった。「ちゃんと我慢できてエラい!」「応援しているので頑張れ!」。いつも励ましの言葉が返ってきた。

蜂谷が部下の刑事を交えて始めた交換日記。ハナは昨年2月18日、「薬物やりたい気持ち40%くらいかな」「散歩するくらいまでメンタルかいふく」などと一字一字丁寧に記していた

まともになりたい

 蜂谷は当事者らが悩みを相談する取り組み「NO DRUGS」という集まりにハナを誘った。月に1度、薬物の経験者やその家族と語り合ううち、ハナは薬物への欲求が薄らいでいくのを感じた。

 ある参加者の女性が自分の服やネックレスをプレゼントしてくれた。母親の交際相手に殴られてできた顔の青あざを化粧で隠してくれたことも。親身に体調や生活を気遣ってくれ、金銭や性行為などの見返りを求めない大人たちが新鮮だった。「応援してくれている人たちのためにまともになりたい」。心の底からそう思えた。

当事者らが近況を報告したり、悩みを打ち明けたりする「NO DRUGS」の取り組みで、ほかの参加者とともに話に聴き入るハナ。人見知りといい、2016年に誘われた当初は月1回の集まりに足が向かないことも少なくなかったが、昨年4月からはほぼ欠かさず参加している=2019年6月、警視庁池袋署

 ハナは夢を持った。介護の仕事に就くことだ。幼い頃、カフェで一緒にジュースを飲み、アイドルの話で盛り上がった曽祖母。楽しい思い出をくれた恩返しになるような気がした。

 いま、病院で働きながら介護福祉士の資格取得を目指す。大学生になるという目標もできた。まずは高卒認定試験を受けるため、小学校の算数から学び直している。

 6月末の「NO DRUGS」で、蜂谷は約50人を前に自作の落語を披露した。薬物におぼれ、家庭を崩壊させた男が、介護福祉士を目指して立ち直り、家族を安心させる。そんなストーリーだ。

 蜂谷は、「発表することがあるんですよ」と切り出して小走りで前に出てきたハナから一枚の紙を受け取った。介護福祉士に近づく実務者研修の修了証明書だった。「合格したそうです」。蜂谷が掲げて見せた。ハナは大きな拍手に包まれ、少女のようにはにかんだ。=敬称略(稲垣千駿)

小学校のドリルを使って算数の勉強をするハナ。大学生になる目標に向け、まずは高卒認定試験の合格を目指して日々励んでいる。

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